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※このblogは、「愛・蔵太の少し調べて書く日記」の別館です。
※しばらく「世界史@2ch掲示板」の中から、コメント100越えてて面白いものを紹介する場所にします。(2007年1月30日)
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※しばらく「世界史@2ch掲示板」の中から、コメント100越えてて面白いものを紹介する場所にします。(2007年1月30日)
今日は『国産ロケットはなぜ墜ちるのか』という本を読んだので、そこから拾ったネタをこれからいくつか書きます。
→『国産ロケットはなぜ墜ちるのか』(松浦晋也・日経BP社)
著者のサイトはこちら→松浦晋也のL/D
あ、新著が出てる。2冊も。読まなくてはのメモ。
→『日本列島は沈没するか?』(早川書房)
→『エルピーダは蘇った 異色の経営者坂本幸雄の挑戦』(日経BP社)
で、『国産ロケットはなぜ墜ちるのか』はもう出てから2年以上前の本なので(2004年2月)、変わったところとそうでないところが多分あると思いますが、最後のほうで驚いたのは、中国(中華人民共和国)の指導者層が、ものすごい工学系((理系とはまた少し違います))だ、ってことです。
工学系の発想、というかセンスについては、松浦晋也がこの本の中でこのように言っています。1998年10月末の時点で、「情報収集衛星」開発の話が起きたときのこと。p150-152。太字は引用者=ぼくによるものです。
実は、戦後の日本の首相(内閣総理大臣)で、「理工系(それも工学系)」の学歴を持つ人は一人もいません(正確には一人だけいるんですが、後述)。
以下のところからリストアップして、wikipediaその他で学歴を調べてみました。
→新・月下独酌 : 学歴社会
→歴代内閣総理大臣辞典
→内閣制度と歴代内閣
ということで、なんと工学系は田中角栄だけ。広義に考えても鈴木善幸を入れて二人だけなんですね。残りは法学部・経済学部がほとんどです。
中国の場合は、現役の人たちに限りますが、こんな具合です。
→中国総合ガイド>政治・政府>指導者プロフィール<中国情報局>
…すげぇ。
トヨタとか日立といった、製造業(メーカー)の役員ですら、ここまでエンジニアに偏りはしていないと思います((誰か調べてみてください))。。
こんなに文科系がいないと工学系閥ということになっちゃいそうですが(ていうか清華大学閥? 毛沢東以降の政治闘争の影響もあるんでしょうか)、少なくとも中国の政治的指導者は、基礎教養として「工学系の発想・センス」が身についている人たちだ、ということはわかると思います。
中国が共産党による、中央集権・独裁政治的国家であることを指摘している人はネット内外にもけっこういるんですが、国家の指導者のほとんどが工学系の大学を卒業したり、その他そちら方面の知識を持っている、という点において「恐るべし」と言っている人は、ぼくの知っている限りではほとんどいません。つまり、東大法学部を中心にした文系官僚的ピラミッドが、政界も(一部?)支配しているような国家である日本とは、イデオロギーとは別の部分で、ものの考えかたが違う、ということです。
「科学大国」だとか「技術立国」だとか言われているみたいな現在の日本なんですが、この調子だと科学・技術で中国に追い抜かれる、という危機感は、経済・産業面での危機感以上に持ったほうがいいんじゃないかと思いました。
だいたい、科学技術を進歩させることについて、アメリカのような国からあれこれ言われない・制限を受けない、という点においても中国の優位性はあるわけで。
ちょっと面倒なんですが、現在の小泉内閣についても調べてみました。
→小泉内閣(第3次小泉改造内閣−平成17年10月31日成立)
ご覧のとおり、理系(工学系)と言えるのは、東京大学工学部卒業の沓掛哲男さんだけなのです。法務・外務、あるいは財務大臣といった文系大臣はともかく、文部科学・国土交通、さらには防衛庁長官という、明らかに理系(工学系)なものの考えが必要な省庁もこのような感じでは、現場の工学系な人たちはさぞ頭が痛いことだろうと思います。
まぁ、そういうセンスの、決定権のある人たちを相手に、ちゃんと説明する能力を、エンジニアな人たちが持つ、というのも、国家的なバランスとしては悪くないのかも知れませんが、政府・閣僚のバランスとしては東工大派閥、とまではいかないにしても、閣僚の半分ぐらいは工学系でも全然問題はなさそうな気がします。
→『国産ロケットはなぜ墜ちるのか』(松浦晋也・日経BP社)
著者のサイトはこちら→松浦晋也のL/D
あ、新著が出てる。2冊も。読まなくてはのメモ。
→『日本列島は沈没するか?』(早川書房)
→『エルピーダは蘇った 異色の経営者坂本幸雄の挑戦』(日経BP社)
で、『国産ロケットはなぜ墜ちるのか』はもう出てから2年以上前の本なので(2004年2月)、変わったところとそうでないところが多分あると思いますが、最後のほうで驚いたのは、中国(中華人民共和国)の指導者層が、ものすごい工学系((理系とはまた少し違います))だ、ってことです。
工学系の発想、というかセンスについては、松浦晋也がこの本の中でこのように言っています。1998年10月末の時点で、「情報収集衛星」開発の話が起きたときのこと。p150-152。太字は引用者=ぼくによるものです。
衛星はマンションではないので、必要なのは建築の知識ではない。衛星開発を理解するために必要なのは工学系の素養である。
1998年9月から10月にかけて情報収集衛星導入を議論した政治家達には、理系の教養同様に工系の教養も欠けていた。このために、無理のある導入スケジュールにゴーサインを出してしまったのだ。
理工系とひとくくりにされがちだが、理と工の差は、通常想像されるよりもはるかに大きい。理学は自然を理解することを目的とする学問で、その基本には「妥協なき真理の追究」という態度がある。それに対して工学は、理解した自然の力を応用する学問であり、基本にあるのは「いかに高いレベルで妥協するか」という精神だ。
自動車の設計を考えてみよう。自動車の基本は「走る、曲がる、止まる」だと言われる。この基本ですら、「走る」と「止まる」はお互いに矛盾している。このように工学では一つの機械に対する矛盾した要求を、高いレベルで妥協させることが必須だ。
情報収集衛星の導入にあたって、「できます」というプレゼンテーションを行うメーカーに「本当にできるのか」という質問が飛んだであろうことは想像に難くない。しかし工学の基本が理解できていたならば、質問は「開発にあたって矛盾する要求はなにか」になっていたはずだ。
続けて「その矛盾は、想定される開発期間内に目標を達成できるレベルで妥協できるのか」と質問したならば、衛星開発における問題点をメーカーから聞くことができたはずである。しかし、情報衛星プロジェクトチームの提言の中には、そのように議員自らが頭を使って、質問をしたと思われる記述は見あたらない。ここでも「プロが言うのだから」と説明を鵜呑みにしたのであろう。
実は、戦後の日本の首相(内閣総理大臣)で、「理工系(それも工学系)」の学歴を持つ人は一人もいません(正確には一人だけいるんですが、後述)。
以下のところからリストアップして、wikipediaその他で学歴を調べてみました。
→新・月下独酌 : 学歴社会
→歴代内閣総理大臣辞典
→内閣制度と歴代内閣
第43代 東久邇宮稔彦王 陸軍大学校
第44代 幣原喜重郎 東京帝国大学法学部
第45代 吉田茂 東京帝国大学法科大学政治学科
第46代 片山哲 東京帝国大学法学部独法科
第47代 芦田均 東京帝国大学法学部仏法科
第48代 吉田茂 略
第49代 吉田茂 略
第50代 吉田茂 略
第51代 吉田茂 略
第52代 鳩山一郎 東京帝国大学法学部英法科
第53代 鳩山一郎 略
第54代 鳩山一郎 略
第55代 石橋湛山 早稲田大学文学科(部)哲学科
第56代 岸信介 東京帝国大学法学部法律学科(ドイツ法学)
第57代 岸信介 略
第58代 池田勇人 京都帝国大学法学部
第59代 池田勇人 略
第60代 池田勇人 略
第61代 佐藤榮作 東京帝国大学法学部法律学科(ドイツ法学)
第62代 佐藤榮作 略
第63代 佐藤榮作 略
第64代 田中角榮 二田高等小学校(あるいは中央公学校土木課)
第65代 田中角榮 略
第66代 三木武夫 明治大学法学部
第67代 福田赳夫 東京帝国大学法学部
第68代 大平正芳 東京商科大学(現・一橋大学)
第69代 大平正芳 略
第70代 鈴木善幸 農林省水産講習所(現・東京海洋大学)
第71代 中曽根康弘 東京帝国大学法学部
第72代 中曽根康弘 略
第73代 中曽根康弘 略
第74代 竹下登 早稲田大学第一商学部
第75代 宇野宗佑 神戸商大中退(学徒動員のため)
第76代 海部俊樹 早稲田大学法学部
第77代 海部俊樹 略
第78代 宮澤喜一 東京帝国大学法学部政治学科
第79代 細川護煕 上智大学法学部
第80代 羽田孜 成城大学経済学部
第81代 村山富市 明治大学政治経済学部
第82代 橋本龍太郎 慶應義塾大学法学部政治学科
第83代 橋本龍太郎 略
第84代 小渕恵三 早稲田大学第一文学部英文科
第85代 森喜朗 早稲田大学商学部
第86代 森喜朗 略
第87代 小泉純一郎 慶應義塾大学経済学部
ということで、なんと工学系は田中角栄だけ。広義に考えても鈴木善幸を入れて二人だけなんですね。残りは法学部・経済学部がほとんどです。
中国の場合は、現役の人たちに限りますが、こんな具合です。
→中国総合ガイド>政治・政府>指導者プロフィール<中国情報局>
胡錦涛(国家主席)清華大学水利工程学部
呉邦国(副総理) 清華大学無線電電子学系電真空器件(真空トランジスタ)学部、エンジニア
温家宝 北京地質学院大学院(地質構造専攻)、エンジニア
賈慶林 河北工学院電力学部、エンジニア
曽慶紅 北京工業学院自動控制学部
黄菊 清華大学電機工程学部、エンジニア
呉官正 清華大学動力学部、同大学院、エンジニア
李長春 哈爾濱工業大学電機学部、エンジニア
羅幹 フライブルク冶金学院(旧東ドイツ)、エンジニア
…すげぇ。
トヨタとか日立といった、製造業(メーカー)の役員ですら、ここまでエンジニアに偏りはしていないと思います((誰か調べてみてください))。。
こんなに文科系がいないと工学系閥ということになっちゃいそうですが(ていうか清華大学閥? 毛沢東以降の政治闘争の影響もあるんでしょうか)、少なくとも中国の政治的指導者は、基礎教養として「工学系の発想・センス」が身についている人たちだ、ということはわかると思います。
中国が共産党による、中央集権・独裁政治的国家であることを指摘している人はネット内外にもけっこういるんですが、国家の指導者のほとんどが工学系の大学を卒業したり、その他そちら方面の知識を持っている、という点において「恐るべし」と言っている人は、ぼくの知っている限りではほとんどいません。つまり、東大法学部を中心にした文系官僚的ピラミッドが、政界も(一部?)支配しているような国家である日本とは、イデオロギーとは別の部分で、ものの考えかたが違う、ということです。
「科学大国」だとか「技術立国」だとか言われているみたいな現在の日本なんですが、この調子だと科学・技術で中国に追い抜かれる、という危機感は、経済・産業面での危機感以上に持ったほうがいいんじゃないかと思いました。
だいたい、科学技術を進歩させることについて、アメリカのような国からあれこれ言われない・制限を受けない、という点においても中国の優位性はあるわけで。
ちょっと面倒なんですが、現在の小泉内閣についても調べてみました。
→小泉内閣(第3次小泉改造内閣−平成17年10月31日成立)
内閣総理大臣 小泉純一郎(慶應義塾大学経済学部)
総務大臣 郵政民営化担当 竹中平蔵(一橋大学経済学部)
法務大臣 杉浦正健(東京大学経済学部)
外務大臣 麻生太郎(学習院大学政経学部政治学科)
財務大臣 谷垣禎一(東京大学法学部)
文部科学大臣 国民スポーツ担当 小坂憲次(慶応義塾大学法学部法律学科)
厚生労働大臣 川崎二郎(慶應義塾大学商学部)
農林水産大臣 中川昭一(東京大学法学部政治学科)
経済産業大臣 国際博覧会担当 二階俊博中央大学法学部)
国土交通大臣 首都機能移転担当 観光立国担当 北側一雄(創価大学法学部)
環境大臣 内閣府特命担当大臣 〔沖縄及び北方対策〕 地球環境問題担当 小池百合子(カイロ大学文学部社会学科)
内閣官房長官 安倍晋三(成蹊大学法学部政治学科)
国家公安委員会委員長 内閣府特命担当大臣 〔防災〕 有事法制担当 沓掛哲男(東京大学工学部(土木))
防衛庁長官 額賀福志郎(早稲田大学政治経済学部)
内閣府特命担当大臣 〔金融 経済財政政策〕 与謝野馨(東京大学法学部)
内閣府特命担当大臣 〔規制改革〕 行政改革担当 構造改革特区・地域再生担当 中馬弘毅(東京大学経済学部)
内閣府特命担当大臣 〔科学技術政策 食品安全〕 情報通信技術(IT)担当 松田岩夫(東京大学法学部)
内閣府特命担当大臣 〔少子化・男女共同参画〕 猪口邦子(上智大学外国語学部)
内閣官房副長官 長勢甚遠(東京大学法学部)
内閣官房副長官 鈴木政二(日本大学法学部)
内閣官房副長官 二橋正弘(東京大学法学部)
内閣法制局長官 阪田雅裕(東京大学法学部)
ご覧のとおり、理系(工学系)と言えるのは、東京大学工学部卒業の沓掛哲男さんだけなのです。法務・外務、あるいは財務大臣といった文系大臣はともかく、文部科学・国土交通、さらには防衛庁長官という、明らかに理系(工学系)なものの考えが必要な省庁もこのような感じでは、現場の工学系な人たちはさぞ頭が痛いことだろうと思います。
まぁ、そういうセンスの、決定権のある人たちを相手に、ちゃんと説明する能力を、エンジニアな人たちが持つ、というのも、国家的なバランスとしては悪くないのかも知れませんが、政府・閣僚のバランスとしては東工大派閥、とまではいかないにしても、閣僚の半分ぐらいは工学系でも全然問題はなさそうな気がします。
これは以下のテキストの続きです。
→http://lovedog.blog5.fc2.com/blog-entry-221.html
一応「昭和天皇の記者会見」に関してですが、今日はあんまり「富田メモ」の検証とか、A級戦犯を昭和天皇がどう思っていたか、という話とは関係ないことを話します。
ということで、ぼくもid:rnaさんと同じく、調べもので1000円あるいはそれ以上使っているような気がしますが、せっかくなので小出しにしていきます(ていうか、テキスト化するための時間不足なもので)。今日は図書館で調べた新聞の縮刷版から、1988年4月25日におこなわれた(4月28日朝刊に掲載された)「天皇陛下記者会見」に関しての、各社の報道をテキスト化してみます。
質疑応答部分は、昨日掲載したこれとほぼ同じなので省略して、解説・コメント部分を中心に。
一応ひとつだけ、『吹上の季節―最後の侍従が見た昭和天皇』(中村賢二郎・文芸春秋)と気になる違いを。どちらが誤記だとか勘違いだとか、断定する要因に欠けるんですが、この部分。
これは、読売新聞では
と報道していて、なんかこちらのほうがいいような気がするんですが、どうなんだろうなぁ。
例によって、朝日・毎日・読売の順(50音順)でやってみます。本文中の太字はぼく(愛・蔵太)によるものです。産経新聞の当時の記事は手に入りませんでした。
朝日新聞。
次に、毎日新聞。
最後に、読売新聞。
まとめると、
1・会見の際に、陛下は左目から涙を流した。(ただし毎日新聞は「涙が浮かんだようにも見えた」という記述)
2・それは記者会見の席上でははじめてのことである。
3・ただしそれは「大戦」の思い出なのか「徳川元侍従長」の思い出によるものなのかは不明。(新聞的には前者の解釈をしたがっているようである)
4・「いやな思い出」というのは、当初は「つらい思い出」という言い方になる予定だった。(毎日新聞情報)
なお、「4」については、富田メモの非公開になっている部分に書かれている、
と符合するようにも、ぼくには思えました。
しかし昭和天皇、結局沖縄へは行けなかったんだよな…。
「おじいちゃん泣かす人は許せない!」と、『かみちゅ!』の一橋ゆりえ様なら言うだろう(ゆりえ様のおじいちゃんって生きてたっけ。まぁ昭和天皇はご存命な時代設定のアニメですけど)。沖縄まで戦艦大和で、おじいちゃんと行っちゃうよ!
ついでなので、終戦記念日までには、ぼくと靖国神社について(靖国神社についてどう思うか)でも書いてみます。
最後にこの本を紹介しておきますが、これ、今でも手に入るんだろうか。一応どのくらいの人が興味を持つか知りたいので、アフィリエイトつきリンクにしておきますが(「個別リンク」というので、クリックした人の数が分かるのです)、気にさわるようでしたらすみません。
→『皇居の植物』(生物学御研究所・保育社)
これは以下のテキストに続きます。
→http://lovedog.blog5.fc2.com/blog-entry-227.html
→http://lovedog.blog5.fc2.com/blog-entry-221.html
一応「昭和天皇の記者会見」に関してですが、今日はあんまり「富田メモ」の検証とか、A級戦犯を昭和天皇がどう思っていたか、という話とは関係ないことを話します。
ということで、ぼくもid:rnaさんと同じく、調べもので1000円あるいはそれ以上使っているような気がしますが、せっかくなので小出しにしていきます(ていうか、テキスト化するための時間不足なもので)。今日は図書館で調べた新聞の縮刷版から、1988年4月25日におこなわれた(4月28日朝刊に掲載された)「天皇陛下記者会見」に関しての、各社の報道をテキスト化してみます。
質疑応答部分は、昨日掲載したこれとほぼ同じなので省略して、解説・コメント部分を中心に。
一応ひとつだけ、『吹上の季節―最後の侍従が見た昭和天皇』(中村賢二郎・文芸春秋)と気になる違いを。どちらが誤記だとか勘違いだとか、断定する要因に欠けるんですが、この部分。
健康のために磯採集や海底の観察ができないこともあります。
これは、読売新聞では
天候のために磯採集や海底の観察ができないこともあります。
と報道していて、なんかこちらのほうがいいような気がするんですが、どうなんだろうなぁ。
例によって、朝日・毎日・読売の順(50音順)でやってみます。本文中の太字はぼく(愛・蔵太)によるものです。産経新聞の当時の記事は手に入りませんでした。
朝日新聞。
陛下手術後初会見 お声に張り よどみなく 「よく回復だいぶ余裕も」
天皇陛下が「会見」という形で記者に会われるのは、毎年一回、誕生日の前だけだ。八十七歳になられた今年は、それが、図らずも手術後初の記者会見となった。陛下は、皇居・吹上御苑の林鳥亭で十五分間にわたり答えられたが、昨年のようにメモを見ることもなく、よどみないお話しぶり。側近の思い出や先の戦争に触れたところでは、一筋の涙も。皇后さまは、誕生日のお祝いに月の満ち欠けがわかる腕時計を贈られる。記者会見の一問一答は次の通り。
(一問一答部分省略)
驚かされるご回復ぶり 大戦に触れ、涙もお見せに 会見を聞いて
宮内庁に常駐する記者たちが天皇陛下にお会いするのは、昨年九月に那須御用邸へ伺って以来だが、当時はもうご病気が始まっていたころで、顔色がさえず声にも力がなかった。
しかし、今回の会見でお見受けした陛下は、表情もゆったりと穏やかで、声や話しぶりに張りがあり、余裕さえ感じられた。着実な回復ぶりには、率直に言って驚嘆させられた。
陛下は、高齢にもかかわらず、歴代天皇に前例のない開腹手術を受けられたのだが、「医者を信用して、何も感じなかった」と述べられている。こうした医師たちへの絶対の信頼感と、難局に処しての強靭な意志力が、今日までの着実な回復をもたらしたのだろう。激動の昭和時代を乗り切ってこられた陛下の一側面を垣間見た思いがする。
会見で、陛下は「たとえば」と声を張り上げて、エピソードを紹介された。質問が次に移っても「なおつけ加えたい」と話を続けられる場面もあった。これまでの会見に比べると、珍しいことである。それだけ、国民に聞いてほしい、伝えておきたい、という強い意欲をお持ちのようにみえた。中でも「国民が相協力して平和を守ってくれることを期待します」と、声を強められたのが印象的だった。
徳川前侍従長の思い出に続いて、陛下が「一番いやな思い出」とされている先の大戦に触れたころ、陛下の左目に光るものがみえ、やがて一条の流れがほおを伝った。終戦の御前会議の陛下の涙は広く知られているが、記者会見の席上で涙を見せられたのは初めてのことだ。
最後に、陛下は沖縄訪問について「健康が回復したら、なるべく早い機会に訪問したい精神に変わりはない」と、改めて述べられた。陛下は、先の大戦で全国でただ一つ、市民まで巻き込んだ地上戦が展開された沖縄を戦後一度も訪問されていない。「念願の沖縄訪問が実現するならば、戦没者の霊を慰め、長年の県民の苦労をねぎらいたい」(六十二年春の会見で)と切望され、ご病気のあと、「思はざる病となりぬ沖縄をたずねて果たさむつとめありしを」という歌も詠まれている。
ご自身が、体調に「だいぶ余裕がある」と言われている今、宮内庁をはじめ関係者は、その実現に努力すべきではなかろうか。沖縄訪問なくして、陛下の「健康回復宣言」もあり得ないと思われる。(岸田英夫編集委員)
次に、毎日新聞。
「大戦は一番いやな思い出」 天皇陛下がご心境 記者会見 「平和を忘れずに」 国民へメッセージ
「戦後、国民が平和のために努めてくれたことをうれしく思っています」----天皇陛下は、時に目を閉じながら、独特の抑揚で心境を話された。八十七歳の誕生日を前に行われた宮内記者会との会見。質問が第二次大戦に大府とやや高い声で「一番いやな思い出」と語り、「忘れずに平和を守ってくれることを期待しています」と国民へのメッセージを述べられた。戦争の原因については「人物批判」になるのを理由に考えを明らかにされなかった。勇退した徳川義寛前侍従長の思い出を語られる時には左目に涙が浮かんだようにも見えた。
陛下は四月から国、公賓をはじめ各界の人々と会うなど、ご公務も大幅に増加。五日には皇居清掃のため全国から集まる勤労奉仕団へのねぎらいを再開、週二回、皇居内の生物学御研究所にも通われている。五月にはヒドロゾアの研究書も出版される。皇后さまの誕生日プレゼントは月齢がわかる腕時計という。
(一問一答部分省略)
天皇陛下の記者会見を前に、宮内庁と宮内記者会の間で「綱引き」があった。
日本人記者が初めて陛下と会い、言葉を交わしたのは敗戦後間もない二十年末。その後、宮内記者会と陛下の会見は数回あり、三十六年からほぼ年一回が定例化、六十年からは誕生日前に約三十分間行われてきた。
今回は宮内庁側から、会見は十分間程度で、質問も五項目ぐらいに、と要望があり、関連質問も遠慮して欲しいと非公式に意向が記者会に伝えられた。記者会では質問事項を取りまとめ、総意で六問を選んだ。手術、沖縄のほか、天皇陛下が米軍の沖縄占領継続を望んだのではないか、と国会でも取り上げられたいわゆる「天皇メッセージ」問題、戦争責任や広島への原爆投下についてもお考えをお尋ねしようという内容。二・二六事件についてなど五項目は文書で回答を頂きたい、と申し入れた。
しかし、宮内庁は「これでは会見は実現できない」と、変更を求めた。記者会は論議を重ね、結局、会見を実現するため質問を作り直すことを決めた。会員の一部には「会見実現のために譲歩した方がよい」との意見もあったが、表現を変え戦争についても質問することになった。
最終的に同庁もこれを受け入れ、会見が実現したが、手術の際のお気持ち、皇后様のご体調、戦争の最大の原因についての質問は文書提出していない関連質問だった。
会見で陛下は「先の大戦」について「いやな思い出」と述べられた。内部の事前打ち合わせでは「つらい思い出」とお答えになる予定だったという。会見は十七分間だった。
最後に、読売新聞。
「大戦が一番いやな思い出」 87歳の陛下 ほお伝う涙 沖縄ご訪問に意欲 誕生日の記者会見
「体調はよく回復したし、疲れることもなく、だいぶ余裕があると思います」----陛下は、八十七歳の誕生日を前にした記者会見で、太平洋戦争についてや、病気のため中止となった沖縄訪問への意欲を、一つひとつ言葉を選ぶように語られた。「大戦のことが一番いやな思い出」と語りつつ、ほおに一筋、涙も見せられた。昨秋の手術から七か月。「健康時の八、九分まで体調が戻られた」と側近も驚くほどのめざましい回復ぶりを示されている陛下は、暖かくなった今月から、ほぼ連日、宮殿や生物学御研究所に通われている。お住まいの吹上御所では、出版を予定している「皇居の植物」の執筆にお忙しい毎日。ご進講も多方面のテーマを希望され、公務にも強い意欲を燃やされている。
(一問一答部分省略)
大きなお声 メモも見ず 今後も無理なさらずに
昨年九月の手術後初めて行われた天皇陛下の記者会見は、順調なご回復ぶりをうかがわせるに十分なものだった。ご負担を軽くするため、例年、三十分の会見時間が、今回は約半分に短縮されたが、誠実に、感慨を込めて語られた。
質問項目を事前にお知らせしているので、昨年四月の会見では、陛下は回答のメモを用意して、読み上げられた。しかし、今年は何も見られなかった。生物の研究についての質問には、植物研究の仲間だった故佐藤達夫・元人事院総裁のエピソードをまじえて、数分間、語り続けられ、予定外の関連質問にも、大きな声で間髪を入れず答えられた。
大戦に関する質問に入ると、陛下は座り直された。「大戦のことが一番いやな思い出であります」と労目をつぶって語られる陛下が、「いやな」と感情を込めたその時、左ほおに一筋の光るものが墜ちた。「どうか今後とも、国民が平和を守ってくれることを期待しています」口調こそ乱れなかったが、ただ静かに涙がほおを伝わった。
昨年九月、記者は那須御用邸で、手術直前の陛下にお目にかかったが、その時に比べ、ほおの肉が少し落ち、やせられた感じがした。しかし、体調を崩して強く緊張されていた当時を思い起こしてみると、今回は、陛下ご自身が語られたように、心身に余裕が感じられた。昨年十月のご退院時や、今年一月の新年一般参賀の時、やや白く感じられた顔色も、ずっと良くなられていた。
陛下は先月の須崎御用邸へのお出掛け以降、戸外での散策を続けられている。体調に自信を持たれているご様子は、今月十五日、誕生日用の写真撮影の際、皇居東御苑で拝見したお散歩の足取りや、側近らとの大きな声での会話などからもうかがえた。宮内庁侍医団も、「陛下の健康状態は昨年七月に那須御用邸に出掛けられた時より、今の方がよい」としている。
こうした健康回復を背景に、陛下は「生涯の課題」ともなった沖縄ご訪問について、再び強い意欲を示された。実現の可能性も出てきたが、ご高齢で、開腹手術から七か月しかたっていない。今後も無理をされず、「沖縄」を目指して、病前の状態にまで復帰されることを祈りたい。(斎藤勝久記者)
まとめると、
1・会見の際に、陛下は左目から涙を流した。(ただし毎日新聞は「涙が浮かんだようにも見えた」という記述)
2・それは記者会見の席上でははじめてのことである。
3・ただしそれは「大戦」の思い出なのか「徳川元侍従長」の思い出によるものなのかは不明。(新聞的には前者の解釈をしたがっているようである)
4・「いやな思い出」というのは、当初は「つらい思い出」という言い方になる予定だった。(毎日新聞情報)
なお、「4」については、富田メモの非公開になっている部分に書かれている、
”嫌だ”と云ったのは奥野国土庁長
の靖国発言中国への言及にひっかけて
云った積りである
と符合するようにも、ぼくには思えました。
しかし昭和天皇、結局沖縄へは行けなかったんだよな…。
「おじいちゃん泣かす人は許せない!」と、『かみちゅ!』の一橋ゆりえ様なら言うだろう(ゆりえ様のおじいちゃんって生きてたっけ。まぁ昭和天皇はご存命な時代設定のアニメですけど)。沖縄まで戦艦大和で、おじいちゃんと行っちゃうよ!
ついでなので、終戦記念日までには、ぼくと靖国神社について(靖国神社についてどう思うか)でも書いてみます。
最後にこの本を紹介しておきますが、これ、今でも手に入るんだろうか。一応どのくらいの人が興味を持つか知りたいので、アフィリエイトつきリンクにしておきますが(「個別リンク」というので、クリックした人の数が分かるのです)、気にさわるようでしたらすみません。
→『皇居の植物』(生物学御研究所・保育社)
これは以下のテキストに続きます。
→http://lovedog.blog5.fc2.com/blog-entry-227.html
これは以下のテキストの続きです。
→http://lovedog.blog5.fc2.com/blog-entry-218.html
ということで、以下の本を読んだわけですが(アマゾンで手に入るかなぁ、一応リンクしておきます)
→吹上の季節―最後の侍従が見た昭和天皇(中村賢二郎・文芸春秋)
ちょっと、資料的に読むのはもったいなさすぎる本だったのでした。
驚くのは季節ごとに記録されている昭和天皇の植物まわりに関する知識と薀蓄で、「これは○○で、××なのだ」と、どんな樹木や草に関してもほとんど即座に説明したりしていることですね。はっきり言って植物オタク。「雑草という草はない」と言う名セリフを残したり((ちなみにその後には「雑草というのは人間のエゴからつけている呼び名である。かわいそうだよね。猛獣という言葉もあるけど、ライオンやトラから見たら、一番の猛獣はあるいは人間かもしれないね」という言葉が続くらしいです。))、誕生日が亡くなられた後「みどりの日」という記念日になったりするのも無理はないなぁ、という感じです。とにかく皇居からほとんど出られなかった人なので、趣味と研究の両面での「植物観察」は、深くならざるを得ないというか。
で、例の「昭和天皇発言メモ」について調べるために、生涯最後の誕生日記者会見がおこなわれた日の部分を読んでみたわけなのでした。
実は、その記者会見というのは、「4月29日の朝刊」に掲載するために、実際には誕生日の前、「4月25日」におこなわれているんですね。
以下、引用なんですが、植物に関する記録部分はちょっともったいないので、画像が見えるようなサイトにリンクを貼っておきます。それから、質問者と陛下の太字を除く、本文中の太字はぼく(愛・蔵太)によるものです。p172-179
ということで。
記者会見の内容については、新聞記事からのコピペだとは思うんですが、ネット内のあちこちで見ることはできたとはいえ、「えー」とか、昭和天皇の息吹が伝わる長文テキストはこれが一番のようなので、類似を意識しながらも転載してみました。
だいたい、「アズマシライトソウ」とか、動植物に関しては省略されがちなんですが、なんかジョージ・ルーカスにオプティカル・エフェクトの話をさせるようなもので、ちょっと質問するとどんどん、ものすごい勢いで話を続けそうな気がします。
さて。
例の「昭和天皇発言メモ」について、もう少し考えてみます。
実は、ぼくの日記のコメントで、少し興味深いものがありまして、
→http://d.hatena.ne.jp/lovelovedog/20060722/p1#c
ということで、こんなのを。
→7月21日付・編集手帳(読売新聞)
今のところネットでは少数派なんですが、「4月25日におこなわれた記者会見」の後、それについて昭和天皇が語ったメモ、というのは意外にいい線なのかもしれません。
もう一度、「メモ」の、裏写りから解読したテキストを見てみると、こんなものがあります。
記者会見の当該部分を、もう一度引用してみます。
確かにいい感じで当てはまりますね。
ちなみに、「奥野国土庁長の靖国発言中国への言及」というのは、こんなもののようです。
→戦後の中日関係 1985年-1989年 --人民網日文版--2005.08.03
→03_move_教科書問題の遍歴
ちょっと全文を探してみたんですが、うまい具合には見つかりませんでした。
しかし、「1988年4月22日」の奥野長官の発言について考える時期としては、報道された時期も含めて「1988年4月25〜28日」というのは、ちょうどいい頃(ホットな話題)に思えます。
ただ、ぼくとしてはこの「メモ」の中の「私」が、「昭和天皇」であると断定するには、
という、「4月29日の吐瀉の記録」が、昭和天皇の体調と関連して残っている、という条件が必要でしょうか。
(同じ日に、徳川元侍従長も吐瀉してたりすると、少しややこしいことになりそうです)
えーと、とりあえず、
何とも言えない状況の場合は、「何とも言えない」とも言わない。もう少しちゃんと調べてから何かを言う。
という感じでしょうか。
まぁ実は、本当はまだ「何かを言う」のには少し、これでも早すぎるかもしれませんが。
これは以下のテキストに続きます。
→http://lovedog.blog5.fc2.com/blog-entry-223.html
→http://lovedog.blog5.fc2.com/blog-entry-218.html
ということで、以下の本を読んだわけですが(アマゾンで手に入るかなぁ、一応リンクしておきます)
→吹上の季節―最後の侍従が見た昭和天皇(中村賢二郎・文芸春秋)
ちょっと、資料的に読むのはもったいなさすぎる本だったのでした。
驚くのは季節ごとに記録されている昭和天皇の植物まわりに関する知識と薀蓄で、「これは○○で、××なのだ」と、どんな樹木や草に関してもほとんど即座に説明したりしていることですね。はっきり言って植物オタク。「雑草という草はない」と言う名セリフを残したり((ちなみにその後には「雑草というのは人間のエゴからつけている呼び名である。かわいそうだよね。猛獣という言葉もあるけど、ライオンやトラから見たら、一番の猛獣はあるいは人間かもしれないね」という言葉が続くらしいです。))、誕生日が亡くなられた後「みどりの日」という記念日になったりするのも無理はないなぁ、という感じです。とにかく皇居からほとんど出られなかった人なので、趣味と研究の両面での「植物観察」は、深くならざるを得ないというか。
で、例の「昭和天皇発言メモ」について調べるために、生涯最後の誕生日記者会見がおこなわれた日の部分を読んでみたわけなのでした。
実は、その記者会見というのは、「4月29日の朝刊」に掲載するために、実際には誕生日の前、「4月25日」におこなわれているんですね。
以下、引用なんですが、植物に関する記録部分はちょっともったいないので、画像が見えるようなサイトにリンクを貼っておきます。それから、質問者と陛下の太字を除く、本文中の太字はぼく(愛・蔵太)によるものです。p172-179
林鳥亭(四月二十五日)
爽やかな陽春の気候である。気温も二十度くらいであろうか。吹上御文庫の侍従候所で一時に卜部侍従から交代の引き継ぎを受けて、そのまま一緒に車で林鳥亭((皇居東御苑地区にあった呉竹寮の一部を昭和三十九年に移築、模様替えした建物。木造平屋建て鉄板葺き二百八十二平方メートル、吹上御所堀外の半蔵門寄りにある。植物学者とのお茶、宮内記者会とのお会いなどに使われてきた。))へ回り、三時に予定されている天皇誕生日前の宮内記者会とのお会いの会場の下見をする。
南側の庭に向かって中央に陛下の御席が設けられ、それに向かい合ってやや細長い和室の中に廊下まではみだして二列に十五社三十人の椅子席が用意されている。奥の床の間の棚には、明治二十一年に島津忠義が献上した薩摩焼子など五点の調度品が飾られ、床には清風作の玳白磁花瓶が置かれ、堂本印象画千代田城の画幅が掛かっている。
亭の南面に広がる芝生は澄みきった空からの光を浴びて輝いている。芝生の西側にハクショウの成木が一本立っている。その傍らの桐が花を開いている。陛下は昨日の日曜日の午前のご散策で、桜林のクサノオウの花の群落をご覧になった後、竹林でウラシマソウをご覧になり、竹林の脇の門から吹上の外へお出になられて、林鳥亭までいらっしゃってハクショウをご覧になられたらしい。
午後三時七分前に吹上御所御車寄せをお車でお発ちになって、三時二分前に林鳥亭にお着きになる。お席につかれるとすぐ、三時ちょうどに質問がはじまる。
幹事記者 昨年の手術から半年余りたちましたが、最近のご体調はいかがでしょうか。ご健康についてどのようなことを心がけていらっしゃいますか。ご回復に伴いご公務が増えていますが、ご感想などお聞かせ下さい。
陛下 体調は良く回復したし、四月に入ってからもほとんど毎日宮殿や生研に出かけていますが一向疲れる様子もなく、大分余裕があると思いますが、侍医の意見を尊重して、無理のないように努めています。
笠原記者 産経新聞の笠原と申しますが、陛下はもちろん昨年の手術は初めてのご経験であったのですけれども、手術が決定した時陛下はどうお思いでしたか。
陛下 えー、医者を信用して、何ともそういうことは感じませんでした。
朝比奈記者 毎日新聞の朝比奈でございますが、陛下、最近の皇后さまのご体調はいかがでございますか。
陛下 皇后は腰の痛みは安定したようでありますが、まだ膝の故障があるので、歩くのに不自由でありますから、女官の介添えが必要なのであります。その他のことについては落ち着いたようであります」
幹事記者 御生研での研究が再開されましたが、ヒドロゾアの研究や『皇居の植物』の執筆などについてご苦心された点などをお聞かせ下さい。
陛下 えー、普通の学者は研究に専念することができますが、私の立場では、公務の余暇にしなければならないので、研究がどうしても断続的になりますから、成果をまとめるためには長い年月が必要であります。その長い間には分類の進歩や材料の進歩のために、今までの研究を見直す必要があります。材料の、材料や情報の入手には困難な時もあります。出版については、陛下の出版については、えー、準備中でありますから、ここでは話はできません。なお、私は語学力が少ないために十分の研究ができないのであります。
植物の場合には、林道等の開発のために植物が消失することもありますが、多くの場合はその位置にあるので観察は便利であります。たとえば、佐藤人事院総裁が城山付近で発見したアズマシライトソウが林道の開発のために消失する危険が非常に大きかったので、人事院総裁は私に寄贈してくれましたので、皇居にその植物を植えたのでありますが、幸いに皇居の庭の様子が現地の林相と非常に良く似ていましたので、生長が非常に良くあります。私が人事院総裁と一緒に散歩した時に人事院総裁が悲しみと共に喜びを私に語ってくれました。
動物の方は、どうしても動くことが多いので観察はなかなか困難であります。健康のために磯採集や海底の観察ができないこともあります。えー、えー、できないこともあります。
とつとつと、時々考えこまれるように途切れながらお話をされる。
幹事記者 先日、五十年以上にわたって陛下にお仕えした徳川さんが退任され、退任の記者会見で終戦直前の御前会議や録音盤事件の思い出を印象深い思い出として語られましたが、陛下の徳川さんをめぐる思い出をお聞かせ下さい。
陛下 えー、えー、この徳川侍従長に対しては思い出が深いのでありますが、特に終戦の時に、録音盤をよく守ってくれたこと、戦後全国を巡遊した時に岐阜の付近で歓迎の人波にもまれて、肋骨を折ったことがあります。
徳川侍従長はよく裏方の勤務に精励してくれたことを私は感謝しています。また、ヨーロッパやアメリカの親善訪問の準備のために、語学力を利用してその準備を良くしてくれたので親善訪問がだいたい成功したように思われます。
幹事記者 今年は陛下が即位式をされてから六十年目に当たります。この間、いちばん大きな出来事は先の大戦だったと思います。陛下は大戦について、これまでにも、お考えを示されていますが、今、改めて大戦についてお考えをお聞かせください。
陛下 えー、前のことですが、なおつけ加えておきたいことは、侍従長の年齢のためにこのたび辞めることになりまして私は非常に残念に思っています。
今の質問に対しては、何と言っても、大戦のことが一番厭な思い出であります。戦後国民が相協力して平和のために努めてくれたことをうれしく思っています。どうか今後共そのことを国民が良く忘れずに平和を守ってくれることを期待しています。
朝比奈記者 陛下、先の大戦のことでございますが、昭和の初めから自分の国が戦争に突き進んでしまったわけですが、その時々に陛下は大変にそのことにお心を痛められたと聞いておりますが、今戦後四十数年を経て、日本が戦争に進んでしまった最大の原因は何だったというふうにお考えでいらっしゃいますでしょうか。
陛下 えー、そのことは、えー、思想の、人物の批判とかそういうものが、えー、加わりますから、今ここで述べることは避けたいと思っています。
幹事記者 陛下は昨年、沖縄県民に、健康が回復したらあらためて訪問したいとのお言葉を示されました。現在大変お元気そうにお見受けしますが、沖縄訪問について、今のお気持ちをお聞かせ下さい。
陛下 えー、私が病気のために、沖縄の旅行を中止したことを今も残念に思っていますが、えー、健康が回復したらばなるべく早い時に旅行したい考えを述べましたが、今日(こんにち)もその精神につきましては何(なん)にも変わっていません。
幹事記者 沖縄で一番になさりたいことは何でしょうか。
陛下 そういうことは、えー、今後の県の希望もありますから、そういうこと、将来のことについては述べることは躊躇したいと思います。
記者会からの質問はあらかじめ調整して届けられており、卜部侍従が打ち合わせに上がっておよそのお答えの内容はできていたのだが、幹事の記者の質問に対して漏らされることもなく、少し余分につけ加えられたりして、無難にお答えになる。幹事以外の記者からの突然の質問にも当意即妙にお答えになっておられる。ほぼ予定どおり、三時十六分に終了する。三時十八分に林鳥亭をお発ちになる。
お車が林鳥亭を離れると間もなく、
「あのね、時間が足りなかったんじゃない」
とお尋ねになる。
「いえ、ちょうど予定どおりでございました」
「そう。どうも忘れたりしていけないね。思い出すのに時間がかかって。おかしいことを言ったんじゃないかな」
「予定されたことは全部仰られましたし、特におかしいところはなかったと思います」
お車が吹上の正門を入ったところで、
「高木侍医長が東宮さまのお風邪のことでご報告申し上げたいそうでございますが、お居間にお帰りになられてすぐでよろしゅうございましょうか」
とお伺いすると、
「ええ、よろしい。ただ、その前に中村が来てくれ。渡したいものがあるから。それから、お茶は侍医長が帰ってからにするからと女官に伝えてほしい」
と仰る。
三時半過ぎに高木侍医長が出て、ご報告を終え、庁舎へ帰って間もなく、インタホンが鳴って、
「侍医長はまだいるかい」
とお尋ねがある。
「庁舎へ帰りました」
とお答えすると、
「それじゃ、中村、ちょっと来てくれ」
と仰る。
お居間へ上がると、
「さっき高木は東宮ちゃんのこと、ヘリコプターの風のせいではないかと言っていたが、私の考えでは、私の乗ったのと同じであれば、室の気密のせいで音がうるさくて聞き難いんだ、だから声を出さなくちゃならないんだ。ジョルダンの皇太子と一緒に筑波へ行ったんでしょう。だから、ヘリコプターの中で声を出したからではないかと思うんだ。風のせいではなくて」
「大きな声を出されたからですか」
「そう。私がそういう感想を持っていると侍医長に伝えてくれ」
「承りました」
五時十分頃卜部侍従が吹上に来る。ご会見後の記者会の空気をお伝えに来たという。
「『大分余裕がある』と仰ったあたりは特に良かったと言っていましたよ」
こちらからも御上が気にされていたことなどを伝える。
二時前に林鳥亭の下見から帰って来た時、地主山の辺りでコジュケイの大きな啼き声が聞こえていた。御所の東玄関の前に白い花が浮かんでいる。二株のシロヤマブキが枝いっぱいに満開の白花を咲かせている。
ということで。
記者会見の内容については、新聞記事からのコピペだとは思うんですが、ネット内のあちこちで見ることはできたとはいえ、「えー」とか、昭和天皇の息吹が伝わる長文テキストはこれが一番のようなので、類似を意識しながらも転載してみました。
だいたい、「アズマシライトソウ」とか、動植物に関しては省略されがちなんですが、なんかジョージ・ルーカスにオプティカル・エフェクトの話をさせるようなもので、ちょっと質問するとどんどん、ものすごい勢いで話を続けそうな気がします。
さて。
例の「昭和天皇発言メモ」について、もう少し考えてみます。
実は、ぼくの日記のコメントで、少し興味深いものがありまして、
→http://d.hatena.ne.jp/lovelovedog/20060722/p1#c
# rna 『http://www.grips.ac.jp/profiles2000.10.1/hijyoukin/gerald,curtis/gerald,curtis.htm
カーティス教授はこの方ですね。ていうかはてなキーワードにもなってますが。
メモについては
http://www.yomiuri.co.jp/editorial/news/20060720ig15.htm
のように、記者会見「について」後日尋ねたメモと見るのが一番しっくりくると思いました。いずれにせよメモ書きで脈絡が分かりづらくて素人にはよくわかりませんが。
徳川侍従長の会見メモ説だと「徳川侍従長の引退会見」が28日にあったというのが絶対条件ですが「確定」という割にはそこがスルーされてるような。。。』
ということで、こんなのを。
→7月21日付・編集手帳(読売新聞)
昭和天皇が北陸を巡幸されたのは、終戦の翌々年である。第一夜の夕食に出た鰻(うなぎ)をきれいに召し上がった。翌日の新聞に「お好きらしい」と記事が載る。行く所、行く所に鰻が待っていた◆「きょうも鰻だったね」。笑って話されたと、侍従の入江相政(すけまさ)さんが随筆に書いている。食べ物の好き嫌いひとつでも、人が動き、波紋が広がる。それを気遣い、個人的な感情を厳しく我が身に封印してこられた人の、語気の荒さをも伝える「メモ」に驚いた◆「だから私はあれ以来参拝していない。それが私の心だ」。靖国神社にA級戦犯が合祀(ごうし)されたことに昭和天皇が強い不快感を表明していたことが、当時の宮内庁長官が残した発言メモで明らかになった◆日付は1988年(昭和63年)4月28日――最後となった87歳の誕生日前日である。無謀にして悲惨な戦争を振り返り、語らずにはいられない心が封印を解かせたのだろう◆その3日前、記者会見に臨まれている。日本が戦争に進んだ原因をめぐる質問に、「人物の批判とかそういうものが加わりますから」と、言葉を濁された。メモは語られざる答えであったかも知れない◆最晩年まで、悔いと苦悩と憤りを抱いておられたのだろう。土用の丑(うし)の日を控えた街に、昭和天皇が好まれた鰻を焼くにおいが甘く漂う。慰霊と鎮魂の夏が近い。
(2006年7月21日1時53分 読売新聞)
今のところネットでは少数派なんですが、「4月25日におこなわれた記者会見」の後、それについて昭和天皇が語ったメモ、というのは意外にいい線なのかもしれません。
もう一度、「メモ」の、裏写りから解読したテキストを見てみると、こんなものがあります。
(2)戦争の感想を問われ、
嫌な気持と表現したが
それは后で云いたい
そして戦后国民が努力して
平和の確立につとめてくれた
ことを云いたかった
”嫌だ”と云ったのは奥野国土庁長
の靖国発言中国への言及にひっかけて
云った積りである
記者会見の当該部分を、もう一度引用してみます。
今の質問に対しては、何と言っても、大戦のことが一番厭な思い出であります。戦後国民が相協力して平和のために努めてくれたことをうれしく思っています。どうか今後共そのことを国民が良く忘れずに平和を守ってくれることを期待しています。
確かにいい感じで当てはまりますね。
ちなみに、「奥野国土庁長の靖国発言中国への言及」というのは、こんなもののようです。
→戦後の中日関係 1985年-1989年 --人民網日文版--2005.08.03
1988年4月22日 奥野国土庁長官が靖国神社を参拜し、過去の侵略戦争を肯定する意見を発表。5月9日、奥野国土庁長官は再度日本の侵略戦争を弁護。13日、奥野は辞職を迫られる。
→03_move_教科書問題の遍歴
63(1988)年 04月 奥野誠亮国土庁長官は、閣僚の靖国神社参拝を問題視する傾向を批判。中国に対しての外交的配慮についても「トウ小平氏の発言を無視することは適当ではないが、日本の性根を失ってはならない。中国とは国柄が違う。占領軍は国柄、国体という言葉の使用を禁止し、教科書からも削除したが、教科書では神話、伝説をもっと取り上げたほうがよい」「戦前は白色人種がアジアを植民地にしていたのであり、だれが侵略者かと言えば白色人種だ。それが、日本人だけが悪いとされてしまった」と発言。中国および韓国はこの発言を強く非難し、竹下登内閣への影響を考慮した奥野氏は発言の撤回はせず辞任を表明
ちょっと全文を探してみたんですが、うまい具合には見つかりませんでした。
しかし、「1988年4月22日」の奥野長官の発言について考える時期としては、報道された時期も含めて「1988年4月25〜28日」というのは、ちょうどいい頃(ホットな話題)に思えます。
ただ、ぼくとしてはこの「メモ」の中の「私」が、「昭和天皇」であると断定するには、
(3)4.29は吐瀉したがその前で
やはり体調が充分でなかった
という、「4月29日の吐瀉の記録」が、昭和天皇の体調と関連して残っている、という条件が必要でしょうか。
(同じ日に、徳川元侍従長も吐瀉してたりすると、少しややこしいことになりそうです)
えーと、とりあえず、
何とも言えない状況の場合は、「何とも言えない」とも言わない。もう少しちゃんと調べてから何かを言う。
という感じでしょうか。
まぁ実は、本当はまだ「何かを言う」のには少し、これでも早すぎるかもしれませんが。
これは以下のテキストに続きます。
→http://lovedog.blog5.fc2.com/blog-entry-223.html
こんなところから。
→九尾のネコ鞭:「会話はキャッチボール」の本当の意味
そこで、こんなのとか。
→FLA魂:「キャッチボールは友情を冷めさせる」
エルモア・レナードやその他、一部の「オフビート」と称される、会話部分のヘンな作家がどうして「うまい」といわれるのか、たいていのテレビドラマの会話はどうしてつまらないのか、その理由を考える素材になりそうです。
小説のうまい人は、会話のやりとりをこう書く人なんだろうな。
→九尾のネコ鞭:「会話はキャッチボール」の本当の意味
そして会話はキャッチボールなのである。つまりそこに目標などない。ダラダラと続けることが大事なわけであって、間違っても取りにくい球を投げてはいけないのだ。相手が返せるような球を投げあって、ただひたすら時間を潰す。これこそが会話と言う奴なのだ。
そこで、こんなのとか。
→FLA魂:「キャッチボールは友情を冷めさせる」
二人以上の登場人物に台詞をやり取りさせるときに、出来る限り気を使って守っているルールがあります。
それは、
「キャッチボールは出来る限りしない」
事。これを意識していると会話のやり取りが自然になると思っています。脚本の段階で台詞のリズムを作るには、多少ぎこちなくてもこのスタイルで書いている事で結果的に、会話がだれずにすむ事が多いです。最終的な作品では、台詞以外に画面に凝縮された補足情報がたくさんありますし、少々の飛躍も構わないかと。
エルモア・レナードやその他、一部の「オフビート」と称される、会話部分のヘンな作家がどうして「うまい」といわれるのか、たいていのテレビドラマの会話はどうしてつまらないのか、その理由を考える素材になりそうです。
小説のうまい人は、会話のやりとりをこう書く人なんだろうな。
<バラバラの会話>
男「お前達は一体?!」
悪者「オモシレェなぁ。必死な奴は。」
男「俺は関係ない!こ、殺すつもりか?」
悪者「・・久しぶりに見たよ。あんなに怒ってるボス。」
長かったなぁ。ぼくの日記でも3年ぐらい前に「テキスト化が進んでいる」という話はしたんですが。
こちらです
→図書カード:黒死館殺人事件(青空文庫)
気になるのは「ルビ」のつけ具合なんですが、どうなんだろうな。元テキストが社会思想社版とからしいし。
ちなみに三大奇書の残りの2つは『ドグラ・マグラ』と『虚無への供物』だったかな。
こちらです
→図書カード:黒死館殺人事件(青空文庫)
気になるのは「ルビ」のつけ具合なんですが、どうなんだろうな。元テキストが社会思想社版とからしいし。
ちなみに三大奇書の残りの2つは『ドグラ・マグラ』と『虚無への供物』だったかな。
今日は『ウルトラマン創世記
』(桜井浩子・小学館)という本を読みました。
桜井浩子と言っても、知らない人は知らないでしょうが、「ウルトラマン」の中では科学特捜隊・フジアキコ役をやった人です(ミネフジコはルパン3世なので少し違います)。
で、昔のことなので、ぼくや多分みんなが知らないこと、世間的には「秘話」と言われるようなことが書いてあるので、その中からいくつか紹介してみます。
「ウルトラQ」のシナリオが、スポンサーが「武田薬品」に決まってから変わったことについて。p43
そりゃ削除されるだろうなぁ。ナレーションは石坂浩二です。
追加説明としては、こんなのも。
→空想特撮シリーズ ウルトラQ
桜井浩子と言っても、知らない人は知らないでしょうが、「ウルトラマン」の中では科学特捜隊・フジアキコ役をやった人です(ミネフジコはルパン3世なので少し違います)。
で、昔のことなので、ぼくや多分みんなが知らないこと、世間的には「秘話」と言われるようなことが書いてあるので、その中からいくつか紹介してみます。
「ウルトラQ」のシナリオが、スポンサーが「武田薬品」に決まってから変わったことについて。p43
『ウルトラQ』では、スポンサーが武田薬品に決定してから、薬品に関するセリフが一部変更されている。第二話「五郎とゴロー」では、ヘリプロン結晶Gが青葉くるみに、第九話「甘い蜜の恐怖」ではラゼリー・B・ワンがハニーゼリオンになった。いずれも撮影後の変更だったため、画面をよく見ると、セリフと口の動きが合っていないのが確認できる。また「五郎とゴロー」においては、エンディングのナレーション「ヘリプロン結晶Gをお求めになりたい方は、どうぞアンバランス・ゾーンへお出かけください。無料でお分けいたします」というナレーションが、まるごと削除されている。
そりゃ削除されるだろうなぁ。ナレーションは石坂浩二です。
追加説明としては、こんなのも。
→空想特撮シリーズ ウルトラQ
ちなみに「ぺギラが来た!」では、ぺギラの嫌いな南極のコケからとれる成分として“ぺギミンH”が登場するが、こちらは、怪獣を退治する薬である事からOKとなったといわれている。

ここにあります。
→Field of Dreams Movie Site - Tourism Info - Baseball
って、何がなにやらよくわからないと思うので、少し説明をしますと。
1・まず、1989年に『フィールド・オブ・ドリームス』という、野球をテーマにしたファンタジー映画が作られまして、
2・その撮影場所に、アイオワ州の「ダイアーズヴィル」というところにある農場が選ばれてロケがおこなわれたわけなんですが、
3・その映画を見た人々が、そこを「聖地」にして、毎年何万人もが訪れる場所になった、
という次第。
映画は、こういうのです。
→フィールド・オブ・ドリームス - goo 映画
→フィールド・オブ・ドリームス - goo 映画:あらすじ
ある春の夕暮れ、アイオワ州のとうもろこし畑で働いていたレイ・キンセラ(ケヴィン・コスナー)は、突然「それを建てれば彼がくる」という幻の声を聞き、畑をつぶして野球場を建てる決心をする。妻のアニー(エイミー・マディガン)は夫の思いを遂げさせようとレイを温かく見守るが、町の人々の反応は冷やかだった。1年が過ぎたある日、娘のカリン(ギャビィー・ホフマン)が野球場に19年のワールド・シリーズで八百長試合のかどで球界を追放されたシューレス・ジョー(レイ・リオッタ)が現われるのを発見する。その日を境に、シューレス・ジョーとともに球界を追放されたシカゴ・ホワイトソックスの8人のメンバーが次々と姿を現わした。
(後略)
別にホラーやミステリーではないので、全文紹介(ネタバラ)してもいいんですが、このラストはぼくにとって最大の号泣映画だったのでした。
で、今日はその「聖地」を紹介している、こんな本について。
→『夢の球場の巡礼者たち -それからの「フィールド・オブ・ドリームス」』(ブレッド・H・マンデル/草思社)(amazon)
この本では、ラストシーンはこんな風に書かれています。p45-46
ランシング家、アメスカンプ家(引用者注:「球場」を提供した持ち主の2軒の家)、そしてダイヤーズヴィルのほぼ全住民が、クライマックスのシーンのために参加した。新聞の広告に応じて、球場に来る最初の訪問者たちを演じるため約千五百人が自分の車に乗って、夢の球場に続く道路に並んだのだ。
周囲のコミュニティは自主的に外の明かりを消して真っ暗にし、各車はカーラジオをつけて地元のラジオ局にダイヤルを合わせ、ユニバーサル・スタジオのヘリコプターからリレーされる指示にしたがった。それによってラストシーンが成功した。ケヴィン・コスナーとドワイヤー・ブラウンが父と息子のキャッチボールをしているとき----それは大人の男どもの涙を誘う---ダイヤーズヴィルのエキストラたちは球場へと車を連ね、ハイビームを点滅させて、エンディングで地平線まで続くライトの輝きを作った。
要するに、地元が全面協力の映画です。
こういう映画撮影の「聖地」を訪問する、というのは、日本でもNHKの大河ドラマのロケ地などが観光名所になったり、映画・アニメ・エロゲなどいろいろなもので実行する人がいるので珍しくはないのですが、『フィールド・オブ・ドリームス』の場所は、単なる映画撮影がおこなわれた場所、というだけではなくて、映画そのものが強烈な癒し・救済系映画だったために、その後「癒しを求めにくる人の聖地」として、もう宗教的な場所になってしまった、というわけですね。
この『夢の球場の巡礼者たち』という本の中では、子供を亡くした父親とか、子供を認知できなかった父親と息子の○年ぶりの和解とか、家族の絆とか、語られているエピソードがやたら父親と息子の話が中心なのが少し、日本人の感覚的にはうっとうしいのですが(たいていの日本人は、父と息子の関係についてはここまで感傷的に饒舌にはならないと思います)、まぁとりあえず父親と十分にキャッチボールをしたことがない子供が読むと、共感する部分は多いと思います。p201
ほかのスポーツの熱心な愛好者からは極端な単純化といわれるかもしれないが、事実、人は教えられずともサッカーボールを芝に投げることができるし、少年はほとんど本能的に初歩的キックやトラッピングの技を真似ることができる。一人の子供にバスケットボールやフープ回しの見本を見せれば、その子はすぐさま熱心にバスケットにボールを入れようとしはじめる。だが野球に関しては説明してくれて、投げ方、補給の仕方、打ち方を指導できるパートナーが必要で、そのパートナーは実際にキャッチボール、打撃用ピッチングができなければならない。ある種のスポーツは、紹介されたらすぐに楽しめるが、野球は初歩の能力を習得し、試合をするのに必要な技術をいくつか習得するまでは楽しみとはならない。
ていうか、ぼくの場合はこの映画は「ドリームス・カム・トゥルー」と「生者と死者との奇妙な関係」という2点で、日本人好みを押さえていると思った次第です。日本人は死んだ人が好きで、それを要にした「泣かせ」のパターンを作るといいのかな、みたいな。
野球は宗教、野球選手は神、というのは、日米双方で野球少年だったことのある(少なくとも、野球に過剰の拒絶反応を持っていない)世代の人には共通の認識、というか常識なわけなんですが、その常識がうまく伝授されていかなかったところに、野球番組の視聴率低迷があるような気がします。もういっそジャニーズの人たちに野球をやらせるという番組を作ったほうが、視聴率は全然稼げそうです。
で、一応本日のネタのオチなんですが、この『夢の球場の巡礼者たち』には、こんなことが書いてありました。日本人とこの映画について。p206-207
日本の文化に野球が浸透していることと、故人を敬う伝統があることからすれば『フィールド・オブ・ドリームス』がライジング・サンの国でヒットしたのは当然かもしれない。すぐに日本からのビジターがダイヤーズヴィルにやって来るようになったのも、うなずける。1990年、東京でのプレミア上映会以来、日本人ツーリストは途切れることなく、日本のメディアも頻繁に夢の球場を取り上げた。
アメリカ人が牧歌的風景にひかれるのとまさしく同様に、日本人にも農村への郷愁がある。若者が職を求めて都会に流出するため、農村の共同社会が消えつつあることを、日本人は心の拠りどころの喪失とみなす。野球を愛し、農村の消失を悲しみ、アメリカ的なものに魅力を感じる文化において、ダイヤーズヴィルの夢の球場と、それを生んだ映画はシンボルとなった。
なかなか適切な、「なぜこの映画が日本でもヒットしたか」という分析ですが、そのあとにこんなテキストが。
フリーランスのコピーライター、ホリ・ハルヨシも映画とそのロケ地を崇めるようになった。
そのあげく、とうとう広島の北にある高宮という小さな町の稲田を、トウモロコシ畑と球場に変えてしまった。
ということで、お見せしましょう、これが日本の「フィールド・オブ・ドリームス」です。
→どりーむリーグ〜トップページ〜
別に「地方の、ホームグラウンド持ちな草野球チーム」というイメージになっちゃいますが、それはそれ。
この写真なんか、いい味出してると思います。

→http://pds.exblog.jp/pds/1/200605/12/10/a0047310_13262167.jpg
ここからいろいろ見られます。
→DREAMFIELDの管理人室
ただ残念なことに、この野球場は、2006年いっぱいで終了、とのこと。
→ドリームフィールド
DREAMFIELDは、本年をもって閉鎖いたします。
少しがっかりです。
ここにその歴史が載ってますが、
→DREAM FIELD
(前略)
1996年 アイオワの“ドリームフィールド”
〔映画「FIELD OF DREAMS」の舞台となった野球場)から
『ゴースト・プレイヤーズ』が来場し親善試合
(中略)
2000年 歌手・俳優の松崎しげる氏が来場
カープOBチーム来場(津田恒美メモリアルゲーム)
(後略)
なかなかのものです。
閉鎖の理由はやはり「後継者難」なのでしょうか。気になるところです。
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